なぜ人を殺してはいけないのか

よく、理不尽な殺人事件なんかが起こると「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対するコメントや、討論がテレビで聞かれます。

ベストセラーの「国家の品格」の中では、『そもそも死刑という制度があって、合法的殺人が認められている。あるいは戦争になれば、敵をなるべくいっぱい殺した者が、世界中どこでも英雄として称えられます。』人を殺してもよい理由も、悪い理由もたくさんあるので、論理的理由は存在せず、『駄目だから駄目』として、論理の限界を指摘しています。

「国家の品格」では過度に論理的理由を求めすぎる風潮に対するアンチテーゼでもあり、子供の教育などの局面においては、『駄目だから駄目』でまったく賛成です。
しかし、宗教にしても法律にしても多くの場合基本的に人を殺すことは悪いことになっていて、このような規範が『成立したのは、どういう理由』なのかなぁと考えずにはいられません。

私は人を殺してはいけない理由を、ずーと(といっても大人になってからですが)、共同体の『秩序を維持するため』だと考えていました。
人を殺すことが悪いことではない『共同体』を想像できるでしょうか?おちおち夜も寝ていられないのではないでしょうか?いつ誰に殺されるかわからない・・・
なので、『味方同士では殺し合いはやめときましょ。自分も殺されたくないから』みたいな考えを徹底ために、古くは宗教、今では法律に記されてきたのだろうなぁと。

要するに、殺人は絶対悪なのではなくて、
・自分の共同体の利益を守るためには、別の共同体の奴はまぁ殺しても問題ない → 戦争
・味方を殺しやがった(共同体の掟をやぶった) → 死刑制度
として殺人が肯定される(というか、明確に否定できない)状況はいくつか存在するのではないかなと思っていました。

で、この考え方は結構独自なのかな~なんて思ってたんですが、最近、「寝ながら学べる構造主義」という本を読みまして、功利主義者とかいう人たちは、自分の利益のために、あらゆる手段(人を殺すのも含むんでしょう)をとるのは当然の権利である(自然権)。ただ、この権利を皆が行使すると、自分の欲しいものは他人から奪い取ってよいことから、「バトルロワイヤル」状態になってしまう。そうなると自分の財産を保全することが困難になることから、自然権の行使の容認は、自然権の行使を不可能にすることになる。みたいなことを言っているそうで、まんま「私の独自の考え」でした。

私みたいな考え方は、何百年も前から大きく言われていることなんだなぁと(下手したら、倫理宗教の授業で習ってたりするのか!?)。勉強が足りないなぁと思いました。

「寝ながら学べる構造主義」は非常に面白かった上、結構考えさせられました。
お暇な方は、ご一読を。

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